2012/05/31

「古典を学ぶ」ということ・・・

 三回にわたり「古代中国の風景」と題して、私の好きな中国の歴史や古典について書いてきました。その一方で、自分自身へのある問いに対する答えを探し続けています。その問いとは、なぜ「中国の古典を学ぶ」のか・・・です。自分の問いに自分で答えを出すことは簡単かもしれません。しかし、人から問われたときに、納得し行動につながる、言い換えると古典を学ぶ動機づけになる答えができるかとなると、話が違います。押し付けようとは思いませんが、一人でも多くの人に古典を学んでもらいたいという思いがあるため、答えを出せずにいます。答えを出せないまま、「古典を学ぶ」ということについてコラムを書いています。
 ずいぶん前になりますが、「図解「東洋哲学」は図で考えるともっと面白い」(青春出版社)と題する本を読みました。この本では、中国哲学として孔子、孟子、荀子、韓非子、老子、荘子、朱子、王陽明が取り上げられていますが、「東洋哲学する」ということは、現実の世界で生き抜く知恵、現代社会の人間関係の規範、人間としての生き方などを学ぶことと書かれています。「古典を学ぶ」ことと哲学の関係は私にはわかりませんが。
 「中国の古代哲学 孟子・老子・荘子・韓非子(小島祐馬・宇野哲人 講談社学術文庫)」は、小島祐馬氏、宇野哲人氏が昭和40年前半に書かれたものを底本としているようですが、古代中国の哲学に触れるには手ごろな書かと思います。私は、哲学を学ぶためではなく、古代中国を知る一助になればと思い読みました。ゆっくり時間が取れるようになれば読み返したいと思っています。中国の古典はたとえばアメリカの論文を読むのと同じく、訳文を読んでいるわけなので、おなじ古典でも時代を超えていろんな学者の見識に触れるように心がけています。
ピーター・ドラッカーのマネジメントⅠ~Ⅳ(有賀裕子訳日経BP2008)の巻末解説で、本書「マネジメント」(1973)はコンサルタント活動の知見を総合し集大成したものと説明されている野中郁次郎一橋大学名誉教授は、「リーダーは実践し、賢慮し、垂範せよ」(DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー20121月号)の中で、「知についての最も基本的な学問である哲学の素養が社会のリーダーには不可欠と考えている」、「モノではなくコトでとらえる大局感、物事の背後にある関係性を見抜く力、多面的な観察力が哲学で養える」と述べられています。
話は少し横道にそれますが、私が、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー(月刊誌)を定期購読して読み始めたのは、19999月号からで12年以上前になります。論文を読むことは大事な習慣であるとの考えから、いまだに継続しています。私にとって記念すべき19999月号に野中氏は「組織的知識創造の新展開」という論文を掲載されています。私はこの論文で「暗黙知」と「形式知」を知りSECIモデル(共同化・表出化・連結化・内面化)に出会いました。共感する面があり、その後共著ですが「知力経営」、「知的創造企業」などを読んで野中氏の研究を学びました。またその概念を会社で紹介したり、仕事で試したりして、学んだことが大変役立ちました。
中国文学者の守屋洋氏は新訳大学・中庸(PHP研究所)で、日本の先人たちは、この国の素晴らしい伝統をつくる上で、中国伝来の儒教から多くのことを学んだ。先人たちの残してくれた素晴らしい伝統に目を向け、受け継ぐべきものはしっかり受け継いでいくことをなすべきではと、述べられています。また、守屋洋氏が孫子、老子、貞観政要の講義をされているプレジデントCD講座ビジネスに生かす古典のパンフレットには、視野が広がる、視点が変わる、知っておきたい、さまざまな状況で役立つ知恵・指針・助言などの言葉や文字が書かれています。
堀紘一氏は戦略コンサルタントとして大成するために必要な力の一つは「信頼を得る力」であるとされ、人が人を引きつけるのは、教養が発する知的魅力で、自己研鑽し知的好奇心を高めることが大事だとされています。(プレジデント2012.4.2号より)
 私は「中国の古典を学ぶ」時間を楽しんでいます。漢字文化圏で暮らす私たちにとって、小学生の頃から学んだ言葉や話などに「むかしの中国」の物語を題材にしたものも多く、中国の古典は受け入れやすく、理解しやすいのかも知れません。「学習」という熟語も論語の冒頭のことば「学びて時にこれを習う」を典拠とするようです。学んで適当な時に復習することで、新たな知見を得ることができるのはうれしいことです。学んで、実践を通して身につけていくことはうれしいことです。私にとってISU研究会は中小企業診断士としての習いの場かも知れません。
 なぜ「古典を学ぶ」かについてはやはりうまくまとまりませんが、「ある分野において、歴史的価値をもつとともに、後世の人の教養に資すると考え 」という「古典」の意味を、辞書検索で見つけて、なるほどと思いました。
(2012年6月 吉田 健司)