2013/10/09

黄河と長江…古代中国の古典を楽しむための豆知識

 前回のコラムにも書きましたが、古代中国について想いをめぐらせるときに、私は時間軸と空間軸を意識します。歴史と地理と言い換えてもよいかもしれません。前回は時間軸をテーマにしましたので、今回は空間軸について少し書きたいと思います。

 中国には黄河文明と長江文明の二つの文明がありますが、両文明の発達した地域は、環境・風土において大きく異なり、生産様式、社会機構、習俗なども異なっていました。
 黄河流域を中心とした地域では、竪穴式住居を基本として、粟の焼畑農耕が営まれ、長江流域では高床式住居が考案され、水稲農耕が営まれたとされています。日本の縄文時代と弥生時代が地域を異にして存在していたように、私には思えます。

 少し歴史をたどりますと、古代中国では夏・殷・周と三つの王朝が続き、春秋・戦国時代を経て、秦帝国が誕生しました。その後、漢楚の争いを経て漢帝国の時代となりますが、これらの夏、殷、周、秦、漢はいずれも黄河流域にありました。この黄河流域に古代文明を築いた漢民族が自己を世界の中心とする意識を表現した言葉が「中華」だそうですが、古代中国の古典の多くは、この黄河流域の文明からの贈り物かもしれません。

 では、長江文明はどうかというと、長江流域にも強国が存在していました。春秋時代、周王朝の権威の下に、覇者としていわば幕府を開いた人物を春秋五覇といいます。この五覇に長江流域の楚・呉・越の三国の王が含まれています。
 このうち楚は、「鼎の軽重を問う」故事を残した春秋五覇の1人である荘王の時代、秦の始皇帝による統一前の戦国時代七大強国(斉・燕・楚・趙・韓・魏・秦)の時代、「四面楚歌」の故事を残す漢・楚の争いの時代に覇権を争う強大国でした。なお、楚で生まれた古典としては、屈原が中心的作家であった歌謡集「楚辞」があります。
 また、呉と越の興亡からは「呉越同舟」、「臥薪嘗胆」などの故事が伝えられています。興亡の末、呉は越に滅ぼされ、越は勢力を拡大しますが、楚との戦いに敗れて衰退し、最後は楚に滅ぼされたらしいとされています。

 古代中国の古典を読むときに、私は、中国大陸を鳥瞰し、黄河流域か長江流域か、その上流域か、中流域か、下流域かを漠然と意識して読むようにしています。名言・故事を個々に読むのもよし、物語を読むもよし、学術研究の成果に触れるもよし、そして、古典を範として現実に向き合うもよし。
(2013年10月 吉田 健司)