2012/02/11

実名社会と匿名社会

 フェイスブックを利用し始めてから1年強経っただろうか。未だによく分からない機能が多く、受け身の使い方で、なかなか初心者から抜け出せない状態なのだが、いわゆる「友達」の数だけはそれなりに増えて来て、今80人ほどとなっている。
 私の「友達」の半数は中学・高校時代の同級生である。10年ぶりに開いた同窓会をきっかけに、折角だから普段から連絡を取り合えるようにしようということで、フェイスブックに「グループ」を作ることにしたようだ。幹事役が熱心に声をかけてくれたお蔭で、私のように同窓会に出席できなかった者もグループに参加でき、ネット上での再会を喜んでいる。新しいメンバーが登録する都度、知らせてくれるので、知らず知らずのうちに「友達」が増えた次第である。
 同級生グループでの話題は、最初の頃は当時の先生やクラスメートなどにまつわるエピソード、思い出話が主だったが、最近ではお互いの近況や日々折々の何気ない話も増えて来た。10人ほどのメンバーが特に活発に投稿してくれている。私自身はごくたまにコメントしたり、「いいね!」をクリックしたりしているだけで、ほとんどリードオンリーなのだが、それだけでもなかなかに楽しい。各方面で有名人と呼ばれるほどの活躍を見せている旧友たちについての話題が投稿されると、同級生だったというだけで誇らしい気持ちにもなる。中学時代に親しくしていた友人が入院したことを知り、見舞いに行くこともできた。
私達の場合、同級生のコミュニティが、フェイスブックによって復活したと言ってよいだろう。このようなネット上でのコミュニティの形成と拡大については、フェイスブックの実名性によるところが大きいのではないかと思う。
実は、何年か前に知人に誘われてミクシィにも登録した。始めのうちは仲間内で情報交換などしていたが、次第に下火になり、そのうち全く使わなくなってしまった。
ミクシィは基本的に匿名の世界である。もともとの知り合い以外は、どこの誰だか正確なことは分からない。もちろん、自らの判断で基本情報を公開してもよいのだが、自分の素性をまるまるオープンにする人はあまり多くない。だから、初めからの知り合い同士でのやり取りが少なくなると、私のような消極的な利用者は、ミクシィの使用機会自体が減ってしまう。新しいコミュニティ形成への発展性も制約される。
これに対して、フェイスブックでは、基本的に実名が使用される。名前がはっきり分かるから、「ああ、あいつか」と懐かしく思い出せる。広大なネットの海から、いくつかの手がかりをたどって、旧知の相手を見つけ出すこともできる。友達の友達と友達になる時も、相手の素性が明らかだから安心できる。ビジネスでの利用ともなれば、実名でのやり取りがベースである。
 日本人は匿名での関係が好きだという話を聞くことがある。私も匿名によるコミュニティを否定するわけではない。匿名だからこそ、安心して話せるような内容もあるだろう。しかし、匿名であるが故に他者に対する慮りが疎かになって、発言が無責任あるいは過激になり、時として誹謗中傷に堕してしまったりするようなこともあるのではないか。
 実名による交流と匿名による交流は、時と場合、扱うテーマによって使い分けられてよいだろう。しかしながら、全体としては実名による交流が主である社会のほうが、健全であると言えるのではないだろうか。
 我が同級生グループでは、なかなかに恥ずかしい話、情けない話も実名で活発に交わされている。これはもちろん仲間内の話だからであって、外部の人にはとても聞かせられない。しかし、内部では「がはは」と笑いあっていられるのは、昔から恥ずかしいこと、情けないことをお互いよく知り合っている素性の確かな間柄だからである。
(2012年1月 福泉 裕)