2014/06/29

小善は大悪に似たり、大善は非常に似たり

数日前、とある女性が電車のドアの前で弁当(スパゲティ)を食べ始めた。回りには立っている人もいて匂いが気になり、「常識の無い人だ。人の迷惑も考えろ。」と思い注意しようとしたが出来なかった。ある駅に近づいたころ、老人が杖をついてドアの前に行ったところよろけてしまった。しかしその時弁当を食べていた女性が老人の手を取り支えてあげていた。ドアが開いてからは、ホームの安全な場所まで手を取りながら誘導していった。他人の迷惑も顧みず弁当を食べている女性がこのような行動をとったというギャップに驚いたと同時に自分の中の常識(他人の迷惑を考えなく、非常識な行動をとっている人は他人に無関心、席も譲らない)を疑った。
これは私が勤めている会社の社長が体験したものであるが、私も同じ場面に遭遇したら同じように考えると思う。
ここから、人を見た眼で判断しては、ということが再認識できる。4月に新入社員も入り、ゆとり世代と言われていて様々な所で教育に困っている様子が伺えるが、当然ながら教育システムの問題等本人だけの問題ではなく、また、良い所、長所は人それぞれ持っており、それを上手く引き出せるかどうかが上司の役目でもあると思う。もちろん良い所ばかりを見て、伝え、甘やかすことはよくない。「小善は大悪に似たり、大善は非常に似たり」という言葉がある。小さなことで満足して甘い言葉をかけていたら害になる、その人のために、非情なくらいに厳しく接することこそが本当の善である、という意味である。
例えば、少しばかり仕事が出来るようになったからといて褒めず、「そんなことで満足していたらどうする。」と叱る厳しさが必要ということであるが、この見極めは非常に難しい。少しでも見極めるには、その人の人と成りを理解しなければならず、そのためにはコミュニケーション、というよくある流れとなる。しかし、それだけでなく、上司も部下に育てられているという謙虚な気持ちも大事なのではないだろうか。
部下がいるから、どう育てようか、成果を出させようか考え、自身でも勉強する。悩むこともあるが、上にいけばいくほど自分を叱ってくれる人は少なくなり、部下がかつての上司の役割を担ってくれている、と考えれば上司の側も見方・考え方が変わり気持にもゆとりができるような気がする。
(2014年6月 山崎 貴則)