顧問先の若手社員研修ということで、曹洞宗総本山総持寺の「禅の夕べ」に参加した。坐禅は学生時代謡曲の夏合宿を岐阜の寺で行った時一度経験した。今回の参加者は、顧問先の若手社員3人の他、社長、工場長、業務企画室長と小生の他、鹿児島、島根といった遠方から参加された方を含めると総勢21名であった。
日程は午後13時~翌日の11時30分の1泊2日で、内容は40分の坐禅が6回、その間に、最初の座禅終了のインストラクター(修行僧)主導によるグループ討議、2回の法話、写経、清掃といった充実した内容であった。
坐禅に先立って、坐禅の心得として、座り方をはじめとした坐禅に対する心構えについて説明を受けた。最初の座禅は、座り方が悪く、足がしびれ40間が長く感じられた。1回目の法話で、坐禅は姿勢を整え、郁を整え、心を整え、無心の境地になることであるという話を聞いたが、足のしびれをまぎらすため息を整えることに集中するのが精一杯であった。お蔭で、眠気に苛まれたり、他事を考えるようことはなかった。
グル-プ討議で、坐禅をしている最中でも足に痺れがきたら座り直しても構わないこと、座り方は正式な座り方である「結跏趺坐(けっかふざ)」(右足をぬいて左股に深くのせ、さらに左足をその上から右の股にのせるすわり方)や略式な座り方である「半跏趺坐(はんかふざ)」(右足をぬいて左の股に深くのせる座り方)でなく胡坐や正座、椅子に座ったやり方でもよいということを聞き、2回目以降は自分なりの座り方で行うことにより足の痺れも少なく座れるようになった。最終の6回目の坐禅では今回参加した会社の現状の問題、行く先のことが頭をよぎり無になることはできなかった。
2回目の法話で、三昧について、曹洞宗では坐禅が、浄土宗では念仏が三昧であるが、いずれも無の境地に達するためのものであるということを、説かれた。三昧とは仏教語で心を一つの対象に集中し動じないことをいうが、集中する対象は有ではないか、動じないという不動心は坐禅をしなくても得ることはできるのではないか、ということを感じた。
生を得て無から有になり死に至り無となるその間どのような生き方をすればよいか、といったことを、以前、他人に話したことあがる。相手から仏教哲学の問題であり、そのような問題は深く追求しない方が良い。はまり込んで気がおかしくなった者、死んだものもある、凡人は深く考えないことである、ということを思いだした。
(2013年11月 長屋 勝彦)