2010/05/01

古代中国の風景 その2

前回のコラム「古代中国の風景」で、私は中国の古典の中でも、特に「管子」と「韓非子」の愛読者であると書きました。「管子」は、春秋時代の斉(せい)という国の名宰相で法家のはじめとも政治家、経済家とも言われる管仲(かんちゅう)の言行録です。徳間書店の中国の思想のⅧ「管子」(松本一男訳)でその内容を知ることができます。「韓非子」は中国古代の法家思想の代表的な書で、前述の中国の思想、岩波文庫など多数の関連書籍があります。今回のコラムのテーマは管仲です。

管仲には、「管鮑の交わり」という故事成語があります。管仲と鮑叔牙(ほうしゅくが)が変わらぬ友情を持ち続けたという「列子」力命や「史記」管・晏列伝の故事から非常に仲のよい友人づきあい、深い友情のたとえとして使われています。「史記」管・晏列伝には、「管仲と鮑叔はともに中国春秋時代の斉の人で、非常に仲がよかった。若いとき共同出資で商売をし、利益を管仲が余分にとったが、鮑叔は「あれは家が貧しいから」といって非難しなかった。」など、2人の交わりが書かれています。
ところで、この管・晏列伝には、謎がひとつあります。「管仲は潁上(えいじょう)の人である」という記述です。斉の国は黄河文明と称される中国文化が栄えた黄河流域のうち、渤海に近い下流域にありましたが、潁上は斉の国ではなく、淮河(わいが)の支流潁水(えいすい)の沿岸にある都市でした。したがって管仲は斉で生まれた人ではないことになります。ここで色々な疑問がわいてきます。なぜ管仲と鮑叔牙は出会ったのか、なぜ管仲が斉で宰相になりえたのか、管仲の思想はどこからきたのかなどです。私が管仲に惹かれた理由でもあります。
古代中国に関する様々な書籍を読みながら、いろんな想像を巡らすのは私にとって楽しい時間です。中国の思想Ⅷ「管子」では、「管仲の青少年時代については、いわゆる「管鮑の交わり」以外には、知るすべがない。」と記述されていますが、まさにその通りだろうと思います。作家の宮城谷昌光氏は著書「管仲」のあとがきに、管仲と鮑叔の邂逅の問題を20年以上解けずにいたと書いています。解けたから「管仲」という小説が生まれたのだと思います、宮城谷昌光氏の答えに興味がある方はぜひ「管仲」を読んでみてください。私にはまだ答えが見つかっていません。

管仲が活躍した春秋時代は紀元前770年から紀元前453年までと扱われたり、孔子が編集したとされる年代記「春秋」の期間から紀元前722年から紀元前479年とされたりしています。管仲が斉の宰相になったのは紀元前701年という説もあるようですが、孔子よりも前を生きた人です。日本に弥生文化が導入される前の時代の人です。宰相になった管仲は約40年にわたり君主である桓公を補佐し、国政を整え、斉の黄金時代を築き歴史に名を残しました。春秋時代は覇者の時代と言われ、斉の桓公は管仲のおかげで最初の覇者になったと歴史は伝えています。覇者は諸侯の盟主の座で、覇者になるということは日本の歴史で言うと幕府を開いたようなものだと思います。
「倉廩(そうりん)実つればすなわち礼節を知り、衣食足ればすなわち栄辱を知る」(「日々の暮らしにも事欠く者に、礼儀を説いて何になろう、生活にゆとりができさえすれば、道徳意識はおのずから高まるものだ」というような意味)は、社会関係の基礎として物質的充足度を重く見る管仲の考え方をあらわしたことばとされています。(参考:中国の思想のⅧ「管子」(松本一男訳))
管仲の政治理念、経済政策、法令、兵法などはどこから来たのかと思い続けています。勉強を長年たくさんしたことは想像できます。では、何で学んだのか、それはどこで、誰が考えたり体系づけたりしたものなのか、管仲の頭脳から生まれたものなのか、などなど興味は尽きません。

管仲を知る資料は私にはあまりありませんが、考古学的に古代中国を知る資料としては甲骨文や金文の研究が挙げられます。手軽に読める書籍としては、「中国の歴史1・2(講談社)」、貝塚秀樹・伊藤道治共著「古代中国(講談社学術文庫)」、伊藤道治著「古代殷王朝の謎(講談社学術文庫)」、岡村秀典著「夏王朝(講談社学術文庫)」、藤堂明保著「漢字の起源(講談社学術文庫)」、落合淳思著「甲骨文字に歴史をよむ(ちくま新書)」などの他、漢字の研究などで著名な白川静の著書が挙げられます。これらの書籍から古代中国の世界をのぞき、イメージを広げながら、中国の古典や解説本、古代中国をテーマとした小説などを読むと今までと異なる風景が見えてきます。
私はこの頃ゆっくり古代中国の世界に触れる時間が作れていませんが、久しぶりに宮城谷昌光氏の「管仲」を読み返してみようかなと思っています。
(2010年5月 吉田 健司)