2011/09/02

避暑地と円高

先日、上高地に行ってきた。今までにも何度か行く機会はあったが実現せず、遅ればせながら42歳にして初めての訪問となった。
上高地を広辞苑で引くと、「長野県西部、飛騨山脈南部の梓川(あずさがわ)上流の景勝地。中部山岳国立公園の一部。標高約1500メートル。温泉や大正池があり、槍ヶ岳・穂高連峰・常念岳・焼岳などへの登山基地。神河内。上河内。」とある。上記の百名山には非常にそそられるが、今回は日帰りということもあり、徳本峠(とくごうとうげ:2135m)まで登ってそこから穂高連峰を眺め、上高地へ戻るという行程だった。徳本峠からの穂高連峰の展望について『日本百名山』の著者、深田久弥は、「日本山岳景観の最高のもの」と評しており、また、日本アルプスの名を世界に紹介したウォルター・ウェストンは、1891年(明治24年)に峠からの穂高連峰の夕方の景観に感激の涙を流したといわれている。

…しかし、当日は雨。しかも登り始めから終わりまでザーザー降りっぱなし。「最高」といわれる展望は全く開けない…。前回の立山で壊れた靴の代わりが足に合わず靴擦れ発生…、と散々な結果だった。

ただ、そうはいっても、そこは日本有数の景勝地。雨でも良いところはあった。特筆すべきは明神橋から河童橋までの梓川右岸道、いわゆる上高地の王道である。雨の中、登山で疲れた体に靴擦れの痛みが追い打ちをかけるが、それでも梓川の水の美しさと、それが育む湿原、森林に抱かれて深呼吸をすると本当に気持ちがよく、日ごろのストレスが解消される思いであった。

上高地の歴史を振り返ると、明治時代に、上述したイギリス人宣教師のウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861 -1940年)が、その著書『日本アルプスの登山と探検』で上高地周辺の山々を世界に紹介したことが、その存在を広めたキッカケであるとされている。そこで、確か軽井沢を避暑地として広めたのも外国人ではなかったか、と思い調べたところ、やはり1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw, 1846年 - 1902年)が別荘地を建設したことが始まりであった。その他、清里高原や奥日光も同様であり、更には「山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山」称される「日本三大外国人避暑地」なるものも存在した(一部現存)らしい。これは、日本の避暑地の歴史が、明治時代に外国人の商人・宣教師・教師が外国人避暑地を日本国内に造ったのが始まりであり、後に日本人の富裕層に広まったことが原因であるとのことである。

自然といい浮世絵をはじめとした文化といい、どうも我々日本人は、自分たちで自分たちの価値を見出すのが苦手なようである。外部から評価されて初めて自分たちの価値に気付くことが多いような気がする。きっと、本質的な価値基準を持つべきなのだろう。もっとも最近の円高は経済ファンダメンタルズ(基礎的諸条件)を反映しておらず、「投機的要因」が背後にあり、決して日本の実力ではないとのこと。難しいところである。
(2011年9月 藤森 正一)