2016/04/01

異なる考え方にどう向き合っていくか

昨年、経済学関連の書籍の中で「「学力」の経済学」という本が話題になっていたことはご存知だろうか。この本を題材に、自身と異なる立場の意見・考えへの接し方について話したい。

まず、本書は、主観的な経験則・行動論に陥りがちな教育という問題を、データによる統計学的手法を用いた科学的根拠(エビデンス)により考えることを主張した本である。これまで、教育に関する本といえば、例えば成績が悪かった子が劇的に成績を改善させた指導経験をまとめたものであったり、子供を有名大学に合格させたことを語ったりなど、いわゆる主観的経験論のようなものが大半だったのではないだろうか。しかし、本書では様々な最先端の実証的な研究事例の紹介をしつつ、教育をエビデンスにより捉えて、議論することの必要性が説かれている。もちろん、本書は一般書として統計学に馴染みのない読者にも平易に書かれているので、安心して手に取って頂けるものである。

この本の中で、私が最も衝撃に感じた部分は、最後のあとがきで筆者が研究に対して言われた言葉かもしれない。それは、筆者が様々な自治体などに共同研究を申し出た際に言われた次の一言である。

「教育は数字では測れない。教育を知らない経済学者の傲慢な考えだ」

確かに、この一つの目に付くサンプル(統計学的に言う外れ値)をもって、何かを語ること自体が統計学的にナンセンスという批判が起きるかもしれない。しかし、それを承知の上で、このような異質な考え方に対して示される強い拒否感について考察する。

今回のケースで言えば、これまで経験則が支配する主観的な教育の世界に、黒船ともいうべき統計的客観性というものがやってきたといえる。主観と客観という正反対の考え方なわけだから、その拒否感も無理はないのかもしれない。そして、拒否感を示している当事者である彼らは、あらゆるレトリックを使ってその黒船の受入を拒否し続けることも可能である。しかし、それは果たして正しいことなのであろうか。もちろん、新しいものが全て正しいものとは限らないし、単なる難癖という場合だってあるかもしれない。しかし、新しいものを完全にシャットダウンするということは、新しい成長・進化への機会というものを放棄することと等価なのではないだろうか。まして、それが学術的な世界で一定の評価を得られているものであるので、難癖ということは考えにくい。そうであるならば、その黒船を受け入れることが仮に自己否定であったとしも、それがこれまでになかった成長・進化の機会となる可能性があるのであれば、少なくとも耳を傾けるくらいの価値はあったのではないだろうか。

もちろん、これまでにはなかったもの、異なる考え方を受け入れるということが想像以上に難しいということは、十分に理解している。しかし、それを拒絶し続ければ、想定以上の成長・進化ということは起こりえない。むしろ、今日の激動の社会で変化に取り残されてしまう恐れすらある。一社会人として生きていくうえで新しいこと、異なる考え方を柔軟に受け入れるパーソナリティというものは、変化の激しい今日だからこそ、最も必要な資質になるではないだろうかと、私は考えている。

最後に、もし読者の皆様の中で、引用された方のような統計学的客観性に胡散臭さを感じている方がいらっしゃれば、本書の議論からは外れるので詳細は省略するが、主観性を取り入れた議論の行えるベイズ統計学に触れてみることをお勧めしておきたい。
2016年3月 神原 崇行