2016/07/01

選択への責任

テレビを見ていると、コマーシャルのキャッチフレーズにハッとさせられることがある。最近、「人生は選択の連続だ、だから面白い」とったキャッチフレーズを目にした。大胆なまで原理的で直球なキーワードで耳に残ったのだが、何のCMだったかは忘れてしまった。
確かに今の自分をかたち作るのは、過去の自分が選び、取り込んだ食べ物や教養であり、その結果で現在の体型や今の収入があるといえる。

やり直しのきく選択もあるが、ほとんどはそうではないと思う。
国民投票でEU離脱を選択したイギリスでは、Bregretという造語が生まれた。直後の予想外の事態に「こんなはずではなかった」と後悔しているとのことだ。投票前に離脱派の主張にうなずき、同調して選択した結果であったはず。なのに、離脱派による、「財政面の恩恵などといった公約を反故にするような動き」に反発して、すでに何百万という再投票の署名にまで発展した。離脱に投票した国民にとってみれば、自分の選択の根拠を覆されてしまい憤っていることだろう。だが残留派の主張を聞いていたらどうであったろうか。実現性のない「財政面の恩恵」に気が付く事が出来たのではないだろうか。

身近な選択で、専門品や買回品といった消費財の購買行動を例に挙げる。たとえばテレビを買い替える際、どのブランドのどのモデルにしようかと考えた時、自分の頭の中にある情報だけで選択できるだろうか。よっぽど強い思い入れや専門的な知識が無い限り、他の意見を参考にするはずだ。専門誌の記事であったり店員のアドバイスであったり。ただ、一番信頼性が高いのは、同じ消費者の立場から何の利害も無く投稿される、比較サイトの口コミだろう。そこで好評価な製品を選べば無難、という心理が働き、それを自分の判断の根拠として選択することとなる。同じ境遇を経た人の口コミを信じて購入したのだから、大きく外れることは無い。むしろ想像通りと満足し、または認知的不協和の低減の為に、自分もその比較サイトに商品の肯定的な記事を投稿するようになる。

極端な例だが、上記の選択をした人は本当に主体的に自分の選択をしているといえるだろうか。選択することは、次点以下の選択肢を切り捨てること。そのリスクを自分に課して一つの選択肢のみを選ぶこと。その結果に責任を持つこと。テレビは、最悪買い換えれば無駄な散財として取り返しがつく。だが国民投票は覆らない。

我々の目前には、参院選、東京都知事選といった、取り返しのつかないタイプの選択が控えている。イギリス国民投票の例に学んで、納得のいく選択をしなければならない。すでにネットで口コミが広がっているが、局所的な情報を選択の根拠にせず、多面的に能動的に情報を取りにいき、自分の選択に自信と責任がしっかり持てるよう準備したい。
2016年6月 半田